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BLOG - 高山かおり(Magazine isn’t dead. 主宰/ライター)

「常識を疑え」勝毎取材後記 #2

取材対象者:中尾浩幸さん

出身:帯広市(帯広大空中学校卒)

職業:「十勝うまいもんバル TONOTO」オーナー

紙面掲載:20/11/17(火)

取材日時:20/11/2(月)18:00~19:30

場所:十勝うまいもんバル TONOTO 代沢店

取材のきっかけ:講談師・神田茜さんが紙面コラム「耕土興論」で代沢店について触れていたこと

 

 自宅から下北沢まで自転車で行くときに通る道の途中に「十勝うまいもんバル」という看板を見つけ実はずっと気になっていたが、その店の扉を開いたことはなかった。というのも私が通るのは昼間が多く、いつも閉まっていたのだ。そんなことをふと考えていたある日、支社長から「十勝うまいもんバル TONOTOというお店が下北沢にあって、オーナーが帯広出身だから取材してほしい」と依頼があった。

 どうやら支社長が知ったきっかけは、勝毎だったらしい。というのも、浦幌町出身の講談師・神田茜さんが紙面のコラム「耕土興論」でTONOTOについて触れていたのだ。文章の一部を引用する。

 先日買い物帰りにスーパーの向かいにある「TONOTO(とのと)」という飲食店に寄ってみました。そこは十勝の物産を使った料理が評判のカウンターバーのようなすてきなお店です。以前から気になっていたのですが、いつもにぎわっていてなかなか入るチャンスがありませんでした。今回の自粛要請で営業時間が短縮になり、昼間は持ち帰りのお弁当を販売しているらしいのです。 

 帯広市の大空出身のマスターはとても感じがよく、にこやかに迎えてくれます。料理は中札内村の若鶏や士幌のジャガイモ、帯広のナガイモなどを使った東京では珍しい品々です。

 初めてなのでマスのイクラ丼、鶏肉ユッケ丼、それに空揚げとポテトサラダなどのおかずセットを買い、子どもたちといただきました。これがめちゃくちゃおいしかったのです。十勝の宣伝をしてくれているような人気店なので、コロナ禍で痛手を負っても何とか続けていってほしいです。

(2020年5月17日付十勝毎日新聞、耕土興論「神田茜 外出自粛中の苦労と発見」より一部引用)

 そんなこんなで支社長とともに代沢店へ向かった。早速、神田さんのコラムについての話になり、「勝毎に掲載されたときに両親から連絡がきたんです。お店の名前が載ってるよ、と。神田さんがいらしたとき、地元が一緒だという話はしたのですがお名前や職業は伺っていませんでした。まさかこのような形でご紹介いただけるなんて思っていなかったのでうれしかったですね。今回の取材に繋がったのも神田さんのおかげなので本当に感謝しています」。

 テーブル席の奥には「北海道勢より」と書かれた大型の祝い花につける立て札があるのが目に入った。尋ねると、中学時代の同級生が開店時に祝い花を贈ってくれたとのこと。「これだけはどうしても捨てられないんですよね」と話す中尾さんは、高校に進学せず、中学卒業後より社会に出て働いてきたという。中尾さんは30歳。私の時代でも高校に行かないという選択をする人はいなかったと思う。今のご時世、ましてや田舎町では珍しいだろう。支社長が、「…もしかしてワルかったとか?」と切り出すと(こんな風に聞けるのも地元が同じだからだと思う笑)、「そうですね…両親には迷惑をかけてしまったと思います」と打ち明けた。

 中尾さんの父は市役所勤務で、教育関係の部署にいたこともあった。「父は穏やかだったのですが、どちらかというと母が厳しくて。きっと両親は高校に行ってほしかったのだと思います」。

 グレて進学を選ばなかったのではない。目標があったからこそ、すぐに働くことを決めた。「父の趣味で家にギターがあったことと、当時三菱自動車のCMでエリック・クラプトンの『Layla』が流れていて、その音がかっこよくて。これを弾けるようになりたいと思ったんです」。ギタリストを目指すため、上京資金を貯めようと働く道を選んだのだ。それだけではない。中尾さんは、当時こんな計画までしていた。「19歳で上京すると決めていました。もちろん上京後すぐに食べていけるとは思っていなかったので、何か手に職をつけたくて。料理が好きだったので飲食店で働いて、上京後に音楽活動と並行できるようにと考えました」。

 15歳でここまで考えていたなんて。私が15歳の頃は進学が当たり前だと思っていたから、何も疑うことなく受験し、高校へ行った。世間の常識を、自分だったらどうするだろうと考えることなんて当時思いつきもしなかった。中尾さんの凄さはここにあると思う。きっと大人たちには理解されなかっただろう。歯痒い思いもしたのではないか。

 「学業に進まなかったので目標を持ってやれることを探しました。それがギターだったんです。挑戦してみたいという気持ちでした。もし24歳までやって芽が出なかったら、音楽を辞めていつか自分でお店をやりたいという思いもありました」。

 目標額を予定通りに19歳までに貯め、上京した。「啖呵を切って出てきた感じですね。もう帰ってこないからって。でも東京に行って部屋を借りようとしたら、親の同意がないと借りれないことがわかってすぐに電話するという(笑)。本当に世間知らずでした」。

 その後約7年の間帰省したのは、親戚に不幸があった2回のみ。しかも日帰り。「でもだんだんと母が丸くなっていったように感じたんです。あんたの部屋残してあるから、と言われるようになったりして」。

 その後、ギタリストの道を諦めることを決め、もう一つの目標だった自分のお店を持つためにまた資金を貯め始めた。昼に仕事をしながら、夜は銀座のクラブでいわゆる“黒服”として勤務。寝る時間を削りながら働く日々。何が中尾さんをそこまで突き動かしたのだろう。「一番になりたいと思っていたミュージシャンも諦めてしまって、自分の中で後がないなと思ったんですよね。学もないし、ここで歯を食いしばってなんとかしないと、何も結果が残せてないから」。

 ひたむきな努力は必ず報われるときがくると思う。中尾さんの話を聞いて強く感じたことだ。2017年、念願叶って独立開業した。オープン前には実家に帰省し、両親にも報告。ずっと会えていなかった同級生たちに会う機会にも恵まれた。それが冒頭の祝い花を贈ってくれた友人たちだ。

 2019年には下北沢に二店目を出店。下北沢は当初から出店したいと思っていたエリアだった。現在は両店合わせて約20名のスタッフを抱える立派な経営者である。

 コロナ禍で下北沢店は打撃を受けたが、代沢店は昼の営業に切り替えたことで、リモートワークになった常連さんに支えられた。「本当にありがたいことに、みなさん心配してパソコンを持ってお店に来てくださって。なので売上自体はダメージを受けなかったんです」。心配になる気持ちがわかる気がした。応援したくなる、そんな風に人を惹きつける力が中尾さんにはある。

 物事を選択して何かにたどり着こうとするとき、なぜその選択をするのか。選択の結果ではなく、その過程に自分の確かな意志が存在しているのかを考えること、それこそが重要だ。そして、世間で言われる“常識”に対して、いつでも一度立ち止まって疑問を持てる心を持ちたいと思う。

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