金子さんのブログ、すごく納得できる内容でした。触れられていることは、以前から幾度となく語られてきていることなのですが、過去に読んだ言説のなかで一番巧みに言語化されている文章でした。
ようするに、角の取れていないものに色気を感じる的な。用の美的な。無作為の美しさ的な。
ソフィスケートさせればいいというわけではないという話なのですが、基本的にはソフィスケートさせるのはいいことですからね。ここがややこしくも面白い。
というわけで、読み終わってスパーンと膝を打ったわけなのですが、それを自分が体現できるかといったらそれは全くの別問題。というかできません。昔ながらのインポート物など、自分には着こなせないのです。
自分が一番熱心に服を買っていたのは今から20年くらい前です。可処分所得のほとんどを服につぎ込んでいましたが、あの時身につけたあれこれが今の自分に何かをもたらしているか、、うーむ、あまり身になっていない気がします。なぜか。今ならわかります。それは型がなかったからです。型、つまり基本がない。中村勘三郎さん的に言えば、型がないから型破りなこともできないし、それはつまり形無しであると。
当時はサイズの合ってない、何より全然似合ってないインポートをなんとなく着ていました。なぜってそれがかっこいいと思っていたし、そもそも今ほど選択肢がなかったのです。ちょうどいい値段で、こなれた服がない時代でした。あのとき大枚はたいて買っていたのは、ヘルムートラングジーンズ、アレッサンドロ デラクア、マリオ マッテオ、クリストフ ルメールなどなど。あとジーン メイヤーとかも着てました、わけもわからずに。とにかくわけがわかってなかったです。服飾の歴史に目配せすることもなく、多くの人のように映画や音楽などからトラッドやアメカジを学ぶこともなく。ただかっこよさそうな気がしたので、気に入った物に袖を通していただけ。
この型がないというのは、今になってじわじわ効いてきています。それはラムダさんのこのスタイリングを見た時にも感じました。
これは音楽とか当時のブリストルのシーンをベースにしたスタイリングで、大きく言えばカルチャーが型となっています。こういうスタイリングは自分には逆立ちしたってできません。かろうじて、これがかっこいいという感性だけは持ち合わせることができていますが。
脈絡がないですね、このブログは。。何が言いたいんでしょうかね。。服を服として見るだけではなく、文化のひとつとして考えた方がファッションをより奥深く楽しめるのではないでしょうか、ということなのかな。うーん、自分でもよくわかりません。
えーと、峰竜太さんのインスタが話題になっているそうですね! うん、見ているだけで楽しいです!