BLOG - テガキ($HOW5 (#テガキ))

※山下達郎さんのバンドに 坂本龍一さんが参加されていたのは・・・?Ryuichi Sakamoto, who was just before YMO, participated in some Tatsuro Yamashita’s album.

 

※貴重 1982年の 山下達郎さんのロングインタビュー記事。


Ryuichi Sakamoto, who was just before YMO, 
participated in some Tatsuro Yamashita's album.

Hosono Haruomi as aloso,
Is this not well known?

前回からのつづき・・・

CITY BOY たるもの CITY POPは 当然チェックなのかわかりませんが(笑)

どうも この CITY POPブーム以降、

山下達郎さんのアルバム SPACYや

IT’S A POPPIN‘ TIME のバンドメンバーに

YMO直前の坂本龍一さんが参加されてた事などは

ブームになっているにも関わらず、あまり語られていない印象がありました。

どうもリゾートやアニメ調のアイドルの絵の雰囲気 ばかり一人歩きして・・・

(もちろん そちらも素晴らしいし大好きですが)

こんな重大かつ、面白い話がされてないのは勿体無いですね・・・。

 

『SPACY』のために、山下がまず選んだリズム・セクションは、村上秀一(ドラムス)、細野晴臣(ベース)、松木恒秀(ギター)、佐藤博(キーボード)というライン・アップだった。この選択は当時の山下の個人的趣味が反映されたものだったが、この4人でのレコーディングは初めてだったとのことで、特に細野と松木は初対面で、村上が間に入って、結構気を遣ったという。それでも、この時代の日本最高のミュージシャン達の慣れない組み合わせでの緊張感を持ちながらの演奏を自分のアルバムに残すことが出来たのは、自分の妄想から生じた偶然とはいえラッキーだったと述懐している[1]

『SPACY』のためのもう一つのリズム・セクションは上原裕(ドラムス)、田中章弘(ベース)、坂本龍一(キーボード)、山下達郎(ギター)というライン・アップで、こちらは気心の知れているメンバーだった。これら二つのリズム・セクションを軸に当時、東京・飯倉に完成したばかりのサウンド・シティ・スタジオにてレコーディングが行われた[1]

 

ブーム以前から

和モノDJや 80年代 当時からレコードが好きで聴いていた人々からすると、

少なからず 今のシティーポップという響きに”違和感”があります。

雰囲気だけで沢山の人が押し寄せるブームとは 所詮そういうモノでもありますね。

 

ということで、

最近 読んだインタビュー添付します。

 

全文はこちら

https://bunshun.jp/articles/-/44613?page=3  より。

 

一流どころを使わないとダメだった

――坂本さんはすでにバンド・メンバーだったんですね。

山下「坂本くんとはシュガー・ベイブ時代からの知り合いだったから。彼はいいとして、ベースとドラムはもっとうまいやつに頼まないとどうしようもないと。中野サンプラザだったかな。リハーサルをしていたポンタと大仏(高水健司・ベーシスト)に交渉したんです。彼らは、とにかくギャラが高いんですよ。普通のライヴだったら1ステージ6万から8万は取ってたから」

――「SPACY」で具体化した世界をライヴで再現しようとしたら、結局一流どころを使わないとダメだった。

山下「それでライヴもポンタとやるようになった。どういう経緯だったかわからないけど、松木さんが岡沢(章)さんとやりたいと言い出して、ポンタ、岡沢、松木、坂本、サックスの土岐英史というラインナップが固まっていった。吉田美奈子は当時僕と同じレコード会社で、彼女はポンタたちとずっと仕事していたこともあって、その延長で学園祭なんかでよくジョイント共演していたんです。

 美奈子が77年に出した『TWILIGHT ZONE』も、ほぼ同じメンツでレコーディングしていたから。学園祭だとギャラが出るからね。僕と美奈子と、じゃんけんで出番を決めて、美奈子のステージの時は僕がセカンド・ギターで入って、ギター2本でやったりしていた。ソロ・ライヴは、メンバーのギャラが高くて出来なかったけど、一方でライヴハウスだと一人2万円払えば来てくれるので、僕はノーギャラにして、みんなに2万円ずつ払って、それでなんとかペイできていた。

 六本木ピットインにしても新宿ロフトにしても、動員はすごくよかったんです。そうこうしているうちにバンドとしての特色が出てきて、そこにライヴ・アルバムを出さないかという話が、レコード会社のディレクターから持ち上がったんです。『SPACY』が制作費のわりに売れなかったというのも大きいんですけど。ライヴ・アルバムだったら……」https://bunshun.jp/articles/-/44613?page=3  より。

 

 

 

 

前も書きましたが

カサブランカ が 使った 大貫妙子さんの 4:00AMが入っている アルバムも

細野さん、高橋ユキヒロさん と共に、キーボード、アレンジャーとして坂本龍一さんが参加されていますね。

この今や 1万7000円もするようなレコードをサブスクで聴けるなんて有難い時代です(泣)

有難すぎて、僕は絵でも描いておきます。

 

達郎さんも YMOも 新しい革新的な 音楽が いきなり最初から

ビッグヒットしていたわけではなくて、理解されるまで時間がかかって、

ALFAのようなレーベル、サポートする側にも天才がいて、

ワールド ツアー戦略などによって それまでの時代を変えて行ったんですね!

 

【村井邦彦プロフィール】(作曲家・アルファミュージック創業者)

1945年生まれ。作曲家・プロデューサー。1960年代後半、慶應義塾大学在学中より本格的に作曲を始め、森山良子、タイガース他多くのアーティストに作品を提供する。1969年に音楽出版社アルファミュージックを創業、1977年にはアルファレコードを創業し、プロデューサーとして赤い鳥、ガロ、荒井由実(現・松任谷由実)、吉田美奈子、カシオペアなどを世に送り出した。細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏のイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)は世界的な成功をおさめた。作曲家としての代表作は「翼をください」、「虹と雪のバラード」(札幌オリンピックの歌)など。1992年から米国ロサンゼルス在住

 

 

 

レコードを昔から買ってる人は 

ドラムが 村上ポンタ秀一さんだったら間違いないとか

そういうミュージシャン表記からの レコードの 買い方もしています。

はたまた、松田聖子さんや安田成美さんのナウシカの曲を 細野さんが作っていたり、

それはもう ここには書ききれない 沢山の天才が集まって交差していた奇跡の時代。

調べれば調べるほど面白いです。

 

 

 

 

こちらもかなり面白かったです。

 

岡村靖幸『あの娘と、遅刻と、勉強と』 note出張版
(ゲスト:吉田美奈子先生)

 

岡村 感じたことや体験したことから書く。

吉田 そうです。そういうことに基づいて書きます。最初のほうは詞を先に書くことが多かったんですよ。それは松本さんから「詞から書いてみたら?」と言われて、それで先に詞を書いてたんですが、だんだん曲が先になって、それに詞を当てはめるようになっていきました。でもその都度その都度で、(どちらが先かは)変わっていきますね。例えば山下(達郎)君に詞を書いたときは、あの人、曲作るのめちゃくちゃ遅いんですよ。それで彼の最初のソロアルバムでは一緒にニューヨークやロスに連れて行かれて、ホテルの隣の部屋でずっと待ってるとラジカセで音源が来る、みたいな状態で書いてました。本当にタイトロープなレコーディングだったんですけど、そういうのは山下君で訓練されましたね。


歌う人がスムーズに歌える歌詞が一番いい

岡村 美奈子さんはある期間、達郎さんに詞を書かれてましたけども、どんな経緯だったんですか?

吉田 あの人は、詞に関してはコンセプトがないんです。「自由に書いてくれ」と言われたので、「じゃあ試験的なことも全部やろう」と思って、日本語と英語の韻を踏んだり、そういうことも全部やらせてもらって、すごく勉強になりました。

岡村 ダンスミュージックに言葉を乗せる難しさや、都会的なイメージを表現することを両立するのは大変なことですよね。

吉田 そうですね。でも自分も歌を歌うわけで、するとやっぱり基本的には「歌う人がスムーズに歌える歌詞」が一番いいと思うんです。でもそれを追求すると、「詞が残らない」と言われるんですけど。商業作家が書く詞は、角があったりつっかえたりするところがあるから、そこを上手いこと拾って(曲に活かして)ヒット曲にするのがだいたいのパターンなんです。私の場合は、「歌詞が流れちゃって内容が入ってこない」とよく言われてたんですけど、でも歌いやすいに越したことはないし、韻を踏んで意味を膨らますことに越したことはないと思っているので、そっちにずっと専念してますね。

岡村 セクシャルな、色っぽい歌詞もたくさんありますよね。それも考えてみると、日本でソウルミュージックやファンクやR&Bをやろうとすると当然の帰結ではあるんでしょうけど、それまでそれをできてた人たちがいなかったから、美奈子さんは先人のエッセンスを取り入れるよりも、半分発明のような形で作られてたんだろうなと思います。

吉田 そうかもしれないです。

岡村 恋愛の歌詞も素晴らしくて、切ない、悲恋の歌詞もたくさんありますし。いろんなアーティストも美奈子さんの影響を受けたんじゃないか……もしかしたら達郎さんも。

吉田 コーラスもずっと手伝ってましたからね。

岡村 そういうことはすごく感じます。ある時期まで、達郎さんの詞を担当していたわけじゃないですか。詞というのはアーティストのメッセージでもあるし、そのアーティストの雰囲気を決めるものでもあるし。

吉田 確かに、そういうところはありますね。

岡村 だから、ある時期まで達郎さんのメッセージやムードみたいなものを、美奈子さんが担当してたんですかね。

吉田 言ってみるとそうですね。

岡村 都会的であることも含めて美奈子さんが作られてきた感じというのは、達郎さんの中で引き継がれてる気がします。

吉田 「こういうのを書いて」というのがなかったから、本当に自由に書かせてもらいましたね。レコーディングのスケジュールが決まってたから、3日で5曲書いたこともあった(笑)。

岡村 でもそれだけ美奈子さんに全幅の信頼を持ってたんですね。

吉田 でも途中で何だか嫌になって、私のほうから辞めました。

岡村 そうなんですか! でもその後も美奈子さんのアルバムに参加されてましたよね(『EXTREME BEAUTY』)。あれは感動的でした。

吉田 まあいろいろあるけど、でも歌い始めちゃうと音楽に専念する2人なので(笑)。

 

自分の疑問は、

日本の音楽史上 なぜこの時期だけ世界基準で素晴らしく

先端の音楽を 時間をかけて 技術と才能と環境、

プロモーション、戦略の パズルが組み上がり、

結果的に 国内外ともにセールスをあげることができたのか・・・(特にYMO) 

仕事をする上で参考にならないかという意味でも調べていました。

(本当に新しいモノは、時間をかけた 優れた戦略がなければ 最初 必ず拒絶される。

これは話すと長くなる・・・) 

つまり

定番商品や  既に知られている、人気のある 物事も大事。ですが、

全体の 何割かは必ず 5年後、10年後〜の為に

なんとか新しいアプローチにもトライしたいものですね!

 

YMO (1)

 

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※更新追記 NB990v6が 初お目見え!

 

Hon’s Tacos × NEUT mag × Brooklyn Brewery

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