「グラウンド5周!」
小学生の時分、所属していたサッカー少年団で最も嫌いな練習はグラウンド周回だった。普段は200mトラックを2~3周なのだが、コーチの機嫌が悪い時などは距離が伸ばされるのである。あの頃の僕が想像も出来なかったのは、30年後に、このトラックの25倍もあるコースを、自ら、能動的に、20周も走ることになるという事だ。
レースへの飢え
部員の鈴木すずです。
ランニングを趣味としているなら知らない人はあまりいないであろう皇居外周コース。1周丁度5kmを信号に止められることなく走れるのが魅力であり、所謂ランナーの聖地とされている。そして一部のランナーの中で嗜まれているのがこれを20周して100kmを走るというロング走だ。
コロナによりあらゆるレースが中止になってしまった今、僕はレースに飢えていた。僕にとって走る為の一番のモチベーションは体型維持なので、ランニングは変わらず続けていた。いやむしろ時間がある故に走行距離は普段より伸びていた。にも関わらず、やはりどこか物足りない。いや、レースじゃあなくても良い。とにかくランニングを通した刺激が欲しい。そんな今の僕にとってKOUKYO100は魅力的なイベントに見えた。
結論から申し上げると、どうにかこうにか完走は出来たものの、控えめ目に言ってもかなりキツい戦いだった。この強烈な体験を書き残しておきたく、筆を執った次第である。
事の発端はフイナム ランニング クラブ♡(以下HRC♡)のバウンティハンターこと堤智美(ともちゃん)だ。ONTAKE100k準優勝、大江戸小江戸91k優勝など、レースに出れば大体入賞。ロードもトレイルも強いランニングの鬼である。彼女が以前KOUKYO100をやっているのを見て、緊急事態宣言が解除され、久しぶりにHRC♡のメンバーと酒を飲んでいる際に、レースも無いし今度やってみましょうかとなったのである。
僕自身はKOUYKO100に挑むのはこれが初めてではない。昨年の8月、一年の内で唯一レースが無い月だったこともあり、ふと思い立って金曜夜の仕事後、SNSで募ったメンバーと走った。結果どうだったか。
惨敗だった。UTMB完走者や100マイラー、サブ3ランナーなど、僕以外は猛者揃いのメンバーだったにも関わらず、見事に全員DNF。敗因を挙げるならば、経験が邪魔をして「舐めていた」ということに尽きる。平地100kmぐらい何とでもなるだろうと。具体的に挙げるならば、
・金曜仕事後で当日含めて特に調整無し。
・たいした補給の準備無し。
・夜中とは言え、やはり8月中旬は暑かった。
人間は失敗する。月並みな事を言うようだが、肝要なのはそこから何を学んで次に活かすかである。したがって僕はこの経験から、今回はそれらをクリアして臨んだ。筈だった。
ゆるく始まった100kmの旅
今回のKOUKYO100はレースではない。グループランですらない。緊急事態宣言が解除されたとは言うものの、複数のメンバーが集まって一緒に走るにはまだ時期尚早と考えたからである。したがって予め決めていたのは「途中で止めるも最後までやり通すも自由。距離も個人で管理。拠点を桜田門あたりにして、これくらいの時間にやろうや」とざっくりとした内容だけだった。
当日、最初に昼頃スタートしたのはHRC部長の榎本さんで、夕方組が到着した時には既に60kmまで走っていた。この日は昼にかなりの土砂降りもあったので心配していたのだが、意外と元気そうでひと安心。次いで夕方組も準備が出来た者から順にスタートし、アイアンマンMCたくみを最後に過酷な100kmの旅はそれに似合わないゆるさで始まったのだった。
遥かなるサブ10
当初の予定では、せっかくやるならサブ10(100kmを10時間以内に走破すること)を狙おうと思っていた。その週は練習も少なめにしたし、当日は昼寝もした。普段10時間以上走る時でもレース以外でジェルは飲まないのだが(高いし味もあまり好きじゃあない)、賞味期限が近かったジェル数個と、KOUMI100で使えず(台風で中止)、THE NORTH FACE 100 HONG KONGで使わず(ただの貧乏性)、UTMFで使えなかった(コロナで中止)VESPAも持ってきた。幸い6月にしては気温も高くはない。自粛期間は暇だったので、5月はいつもより多めに420km走った。なので自分では「なかなか仕上がっているんじゃあないの~?」と思っていた。30km過ぎるまでは。
僕のロードウルトラにおけるPBは2018年沖縄100Kウルトラマラソンにおける11時間51分である。と言うとまるで何度かウルトラを走った事があるように聞こえるかも知れないが、言ってしまうとそれ一回しか走ったことがない。「一度しかレース出たことがない癖に何を偉そうにPBだ。この田舎者が!」と思ったそこの都会っ子。確かに僕は田舎者ではあるけれども、一度しか走ったことがないからと言ってPBという言葉を使ってはダメなのか?プライベートベストとは日本語にすると自己最高記録だ。つまり一度でも走った事があるならば、それは記録であり立派なPBなのである。だからもっと優しくして欲しい。
100kmを10時間で走るには6分/kmで走る必要がある。1キロを6分で走る。フルマラソンを3時間半以内で走れる人であれば、屁をこきながらでも走れるペースだ。いや、訂正しよう。屁はガチで走っている時でも出る。
閑話休題。100kmは長いので途中トイレにも行くし補給も必要であることを考え、アベレージ5分40秒/kmくらいで行ければと思っていた。そして最後10kmで上げられたら上げる。とは言うものの、フルマラソンほど厳格にペースを刻もうとは思わず、まあ気持ち良いペースで走ればそれぐらいになるかなと思っていた。しかしながら。
最初の10kmくらいまでは、100kmという距離を加味しつつ気持ち良く走っていると大体5分20~40秒くらいになったので「オッケー、グー」と思っていた。そのままあまり時計を見ることなく走り続け、15kmぐらいで時計をチラ見するとちょっとペースが落ちていて6分/kmぐらいになっていたが、「慌てる事はない。100kmは長い。こんな序盤で頑張り過ぎるときっと後にゆるやかな死が待っている」と自分に言い聞かせ、最優先はとにかく完走と下方修正。とにかく肩の力を抜いて走ろうそうしようと気持ちを切り替えた。
それでも尚、予定よりもずっと早く異変がやってきたというのは30kmを過ぎたあたりである。あれ、あれれ?この疲労感は60kmくらいで来るはずなんだけどな……。先週の疲労がまだ抜け切れてなかったのか? もしくは年齢的に以前よりもリカバリが遅くなっているのか? だがしかし、いま色々考えても仕方がない。「ゴールに向かおうとする意志さえあれば、いつかはたどり着くだろう? 向かっているわけだからな……。違うかい?」と『ジョジョの奇妙な冒険第五部』のキャラクター、アバッキオの同僚による名言を思い浮かべ、歩きも交えながら距離を重ねていった。
弱い自分
今回は8人+1名(サブスリー牧野は都合により夕方から終電まで)が参戦したのだが、先にも述べたように皇居は一周5kmあるので、なかなか仲間に会うことは無い。1時間以上誰にも会わないなんていうのもザラだ。そんな中、23時半頃だったか、桜田門のあたりで榎本さんに会う。聞けば次がラストループとの事。い、良いなあ……。
やっとの思いで半分の10周、50kmを終えた時には既に相当疲れていた。まだやっと半分が終わったばかりなのにこの疲弊感。これくらいから「やめたい」というネガティブな気持ちが脳裏に浮かび始める。
「中途半端に前回の記録(75km)に近いと言い訳がしにくいな。なら切り良くここでやめようか」
「昨日ついつい帰宅ランで11km走ったちゃった疲労が抜けてなかったわぁ」
「右足裏に人面瘡みたいな水膨れが出来てしまってですね……」
他人にはいくらでも言い訳が出来る。けど自分の心を騙す事は出来ない。全てひっくるめてが早さであり、調整力や痛みを回避する能力、痛みが出た時にそれをどう対処出来るかを含めてが強さであると本当は分かっているからだ。そして何よりも、先に見事完走を果たした榎本さんが作ってくれた良い流れを自分が最初に壊したくなかった。
長距離走は個人スポ―ツであり、球技や格闘技のような形態で相手と競う合う訳ではないので、誰かの失敗が自分の結果に直接的な影響を与えるという事はない(もちろんレースにおいて一位二位を争うようなトップ選手ともなれば話は別かも知れないが)。にも関わらず、自分が窮地に追われている中、ある人が順調に事が進んでいる(ように見える)のを見ると、心のどこかでコイツ失敗しないかなという邪念が生まれてくる。「他人の不幸は~」というヤツだ。この複雑な人間心理は、芥川龍之介が「鼻」で描いたそれに似ている。
人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して言えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。
告白しよう。
全員での完走を願う一方で、僕はこのとき確かに「誰か俺より先に潰れないかな」という期待を微かながらに抱いた。このような弱い自分、他人に見せたくない醜い自分に対峙出来るところが長距離走の面白いところでもある。
痛みは一時的なもの
しかしながら、周りがどうなろうが自分が完走出来ないことに変わりはない。そして自ら掲げた目標をクリア出来なければ結局のところ自らを認める事は出来ない。そうである以上、滅多に味わえないこの辛さを堪能してやろうじゃあないか。言っても足が痛いレベルの話である。それは一時的なものだ。死ぬ訳じゃあない。「覚悟はいいか? 俺はできてる」と、ジョジョのブチャラティの真似をする事でどうにか気持ちを切り替え、やれる所までやってみようとふんどしを締め直した。
ここから75kmまではただただ無心で走った(正確に言うと半分くらい歩いた)。空洞な頭脳の中で、何故か志村けんの「月曜日はウンジャラゲ」が無限ループしていた。そして15周目を終えた時に何かを抜けた感触があり、「あと5周。イケる」と完走への確信を持った。
見たことがない景色が見たかった
今までいくつかの過酷と言われるレースに出てきたが、このKOUKYO100はその中でも最もキツい自分との戦いだったと言える。それは記憶が鮮明過ぎてまだ喉元を過ぎていないせいなのか、レース特有のアドレナリンが出ていなかったせいなのか、20ループという特殊性がそう思わせたのかは分からない。それでもなお、その感想を聞かれたら僕はこう答える。
「やらなかったら、おそらくそれはいつまでも心のどこかに引っかかっていただろう」
ただし、もう一度やりたいかと聞かれたらはっきりとこう言う。
「もう二度とやりたくはない」
しかし先の事は誰にも分からない。2020年6月13日、僕が皇居を20周走る事で見た新しい景色は、きっと明日には違うそれになっているのだから。
【KOUKYO100リザルト】
挑戦者:榎本一生、山本博史、嶋田哲也、岡田拓海、諸隈史香、浜田尚輝、田嶌一徳、鈴木武史
完走率:100%