って格言ありますよね。あ、OWLの小牟田です。
この孔子の言葉は長く名言として知られ、模範とすべき考え方とされてきました。
ですが、これを実践するのって本当に難しくないですか?
復讐の連鎖を止めるためには、、みたいな言葉とともに、この格言は使われるようですが、果たして罪によって心を抉られたひとにその言葉は響くでしょうか、届くでしょうか。
自分は常々これが実践できないことで、未熟な人間だな、、と自省を繰り返していました。
“自分の意に沿わないことがひとつあるだけで、その人間そのものを否定するのはおかしい”
わかってます。わかってはいるんです。ですが、やっぱりしこり(のようなもの)が残ってしまうんです。
今日の山下達郎氏のラジオを聴いて感じたこと、それは多くの人と同じで、語ってほしいのはその部分ではなかったということです。今日語られた内容は、ある程度のファンであればこういうことを言うだろうなという想像の範疇でしかありませんでした。そこじゃないんです、聞きたかったことは。
「私が一個人一ミュージシャンとしてジャニーさんへのご恩を忘れないことや、それから、ジャニーさんのプロデューサーとしての才能を認めることと、社会的、倫理的な意味での性加害を容認することとは全くの別問題だと考えております」(引用ママ)
誰だって性加害が問題なことはわかってるんです。けれど、この件においてどんな文脈であれ、別問題という言葉を持ち出すのは、あまりに無神経ではないでしょうか。どう考えても溶け合ってくると思うのです、その境界線は。
あの誇り高く、教養深いタツローも聖人君子ではないことがわかってホッとした、というツイートを目にしました。自分も悪い意味でその意見に共感します。
一方で、自分が同じような局面に置かれたとしたら、どのような判断をするだろうかと考えさせられました。すなわち、“ご縁とご恩”を感じる相手になにかがあったとき、自分はどちら側に立つことになるのか、壁ではなく卵の側に立てるだろうか、と。