人によって仕事をする目的、価値観、理念など、さまざまだと思います。
前々回、「京都店で感動したこと」というタイトルのブログを書きましたが、眼鏡の仕事にはお客様の視力上の問題を解決するという側面があります。ファッションとは対極的でそれは医療的でもあり、快適な視力を提供する道具として最も重要な役割をはたす責務があります。光学や眼のことなど深く掘り下げて、人の悩みや問題の解決をすることは私がメガネの仕事を選んだ大きな理由でもあるのです。
私の家系は弁護士、大学教授、政府系の機関などに勤める親族など堅い仕事に就く人が多く、家の中にも小難しい本が並んでいて私もそれを学生時代に読みあさっていたので、自分も堅い方向に行くものだと思い込んでいました。
しかし、父が転勤族で子供の頃に移り住んだニューヨークはちょうどウッドストックの野外コンサートがあった年で、街がロックとヒッピーの文化の真っ只中にありました。70年代、帰国してから住んだ場所は青山。「VAN」がもたらしたアイビーブームから始まり、その後「アルファキュービック」が「イヴ・サンローラン」をヨーロッパから紹介し、「BEAMS」や「Miura & Sons」などが生まるのを目の当たりにしながら青春時代を過ごしました。中学から大学まで今のファッションに繋がる流れの渦中にいたため、常にファッションが空気のように自分に纏わりつく感覚でした。青山から歩いて原宿や千駄ヶ谷の方に行くとまるでファッションのワンダーランド。中学生の時には「Vogue Uomo」などを見ていました(笑)。
それでも大学卒業後は銀行に勤めたのですが、観念的には向いていると思い込んでいたものの、実際、日々数字を追い続けるような仕事は全く性に合いませんでした。割とすぐ辞めて、改めて自分にとっての仕事を考え直しました。ファッションには強い関心があったものの、堅い家系の血のせいかファッションそのものを仕事にすることにも違和感がありました。何かファッションの要素を強く持ち、一方でファッションとは全く異なる面も持つ仕事がしたいと考えるようになりました。
その結果として眼鏡を仕事として選んだのですが、1982年当時、眼鏡は全くファッションアイテムではありませんでした。でも顔の真ん中にあり、顔と服に対しても大きな印象を与える眼鏡は必ず重要なファッションアイテムになると信じてこの世界に入りました。そしてもう一方では自分が眼や光学について勉強をして高度な知識とスキルを磨けば磨くほど、見えない、疲れるといった眼の問題に起因する悩みや不便さを持っている人たちを手助けすることができる。そこに大きな魅力を感じたことも、この仕事を選んだ理由です。
とは言え1982年に銀行から転職した眼鏡業界は眼鏡をファッションとして考える空気は希薄で、眼鏡を買いに来る人たちもそこに楽しさやファッションを期待する感じではありませんでした。しかし、当時の業界は技術に対してのこだわりは強かったので、知識やスキルを身に付けるには良い時代でした。いくつかの店舗で仕事しつつ、眼鏡の専門学校でも働きながら履修できるコースで勉強し、眼や光学について通勤時間も惜しんで知識を習得しましたが、保守的な業界の空気は強かったので、眼鏡のファッション化は簡単には実現しないなぁと感じていました。
眼鏡の仕事を始めて4年ほど経った頃、その会社のニューヨーク支店に転勤することになりました。そこでは眼鏡だけデザインしているヨーロッパやアメリカのブランド、小さな工房もあることを知り、初めて眼鏡のデザインに楽しさと希望を見出せました。
また、ニューヨーカーたちは眼鏡のみならず、仕事や週末のライフスタイル、老眼鏡を格好よく掛けて歳を取ること自体も楽しんでいるようでした。そんな人生を目一杯楽しもうとする文化があることにも新鮮な驚きと感動を覚えたんです。
ニューヨークに来て1年目くらいに、たまたま勤めていた店が移転することになりました。移転するまでの10ヵ月の間、店の運営を任され、初めて好きにやっていいということになったのです。ずっと眼鏡を楽しくおしゃれなアイテムとして提案したいと考え続け、それが新しい業態やアイデアに寛容なニューヨークの地でチャレンジできることになり、嬉々としてその短期の店舗運営を引き受けました。もう一人日本人の女性とたった2人だけです。
毎日店舗の仕事を終えた後、近くにあった「BARNEYS NEW YORK」「Saks Fifith Avenue」「Tiffany&Co.」「Bergdorf Goodman」など、プロのディスプレイアーティストが腕を振るう名店の手法や内容を研究し、店に戻って夜な夜な23時〜24時くらいまで自分の店のウィンドウを飾りつけし(予算はなかったので折り紙やプラスチックなど何でも使っていました!)、翌朝ウィンドウに付いている指紋の数で反響を見ながらまた改善を加えました。自分たちの服装や接客のトークスタイルを変えるなどして、徐々に地元のニューヨーカーたちやツーリストのハートを掴んでいったのです。主に日本の商社マンや銀行マンなどの赴任組みがメインだった顧客はアメリカ人中心の地元の人々になっていきました。10ヵ月の期間が終わる最後の月は、移転する前の売り上げを抜きました。そこに来続けてくれたニューヨーカーたちは移転した店舗に引き続き来たこともあり、新店舗の売り上げは2倍以上になったのです。
この時の体験が「グローブスペックス」の原点です。私がニューヨークで行なったことは売り上げを重視したワケでも、ディスプレイを凝ったワケでもありません。ただひたすら眼鏡を楽しいアイテムとして喜んでもらうことに徹底して取り組んだのです。満足してもらうための品揃え、プレゼンテーションと提案、接客や我々の装いなどすべてを毎日見直し、日々改善し全力で磨き上げていきました。結果としてニューヨーカーたちとツーリストの方々に非常に愛される店になっていき、驚異的な売り上げを達成するようになったのです。今でも世界中から素晴らしい商品を発掘して厳選し、定期的にデザイナーを招いてトランクショーなどのイベント(今はコロナ禍で無理ですが)を開催していますが、ファッションとして眼鏡を楽しんでもらったり、新しい自分の魅力を発見してもらうために行っています。
もう一つは眼鏡の仕事の技術的側面です。光学や屈折異常(近視、遠視、乱視など)に対する高度な知識や対処のスキルを勉強し続け蓄積することで、より精緻な対応技術を身に付ければ付けるほど、多くのお客様に信頼され、安心感を提供できます。ファッションとより素敵な自分のアピール方法を眼鏡で心から楽しんでいただくためには、快適に見るための眼鏡の機能面に対して、絶対的安心感が持てないといけません。私は眼鏡の仕事のこうした機能性や技術面も非常に魅力と価値を感じており、とても好きな側面でもあるので若い頃から勉強してきました。アメリカの専門資格を取得して今でも定期的に海外の最新の技術セミナーなどに出席し続けています。その結果としてお客様に深い安心感を提供できていますが、先日のブログでもご紹介した通り、時折どこに行ってもちゃんと見えなかった難しい眼の状態の方々にも最適な見え方を提供できており、それが実現できた時はお客様から感動的な感謝の言葉を頂くこともしばしばなのです。
私はファッション業界の方々と一緒に眼鏡のデザインを企画したり、世界中から素晴らしいデザインやこだわりのあるブランドを発掘して紹介する眼鏡のファッションや楽しさも大好きなのですが、不便で困っていたり、時には苦痛すら感じておられる方々に自分の知識やスキルで最適な解決方法を提供することも、とても大好きで誇りに思っているのです。
よく取材やお客様から「眼鏡がすごく好きだからこの仕事をしているのですか?」と聞かれるのですが、実際には「眼鏡の仕事」が大好きなんです。「ファッション、楽しさや喜び」と「不便さや辛さを解消して、快適な見え方を提供する」その両面が大好きなんです。
もちろんモノとしての眼鏡も大好きですよ!