BLOG - 松井明洋(MEDIA SURF COMMUNICATIONS / STOCKHOLM ROAST)

アメリカとわたし

文学をこよなく愛する諸兄諸姉はすでにお気づきかと存じますが、ここ最近の「〜とわたし」は、江藤淳先生へのオマージュであります。

1999年にアメリカの西海岸に留学というか、もはや遊学をしていた小生は、当時ホストファミリーの家に、母から航空便で送られてきた日本の食材が入った箱の中に隙間を埋めるように入れられていた一冊の文藝春秋に掲載されていた氏の「妻と私」を読んで号泣。今思えば、私の文学に対する憧憬は、というか、文字で何かを表現しきるということに対する憧れは、常に、あの瞬間の高揚を再度求めているのではないかとすら思うわけです。

閑話休題。

18歳という人生において一度しかない最も意味がある(ように思える、というか多分そう)年齢を、アメリカで過ごしました。リーバイスにナイキにヘインズが当時のアメリカのイメージで、それらを着用しながら海岸沿いをスケボーしてる若者たちのイメージをもって、充分なイメトレをした私はいざゆかんと米国に足を踏み入れました。しかし、現実は残酷です。日本から来た松井少年は、ワシントン州の田舎町(ほぼ砂漠)の高校に派遣され、映画で観てきたそのイメージとのあまりの乖離に愕然としたものでした。というか、海もなかったし。スケボーしている奴もいなかったし。

とはいえ、その時に友人になった人たちとは今でも繋がっていて、人生の転換点の一つはあの町のあの瞬間にあったのだな、と思うわけです。ちなみに、レッチリとエミネムのクリスティーナ・アギレラ(いまだにスペリングがわからない)を知ったのもの、99年の夏でした。これを聴いた瞬間は今でも覚えております。

2000年(Y2Kは、結局起きなかった)に日本に戻ってから、そのあと数えきれないほどアメリカに行ったけども、今のアメリカの姿は残念ながら10代の私が憧れたそれとは大いに異なり、困惑もするわけですが振り子のように、また寛大で魅力的なアメリカに戻ることを願いつつ。

しかし、そんななかでも思い返すのは、2010年の初夏、LAとポートランドに行った時のこと。当時のボスの黒崎さんと、その友人の渡邉かをるさんと三人で。東京は青山からタクシーで成田空港に向かい(あとにも先もこの時だけ)、空港で鮨を食べて、アメリカについてからもシックな大人の男の友人同士の旅のあり方を、常に少し後ろを歩きながら覗き見たのでした。ちょうどデニスホッパーが他界した頃で、ベニスビーチ近辺もなんとなく沈んでいた空気だったのをよく覚えています。現地の友人たちと皆で毎晩食事に行き、渡邉かをるさんの好きなウイスキーを飲み、少し酔っ払った黒崎さんと渡邉さんがする昔話を心のメモ帳にそっと速記で書き記したのでした。世界中のどこのバーが良いとか、イデーの昔話とか、KIRINのロゴの秘密とか。

これは良いパーティもそうですが、旅においては特に顕著で、「帰りたくない!」と思うタイミングで帰ることが重要かと思います。この時の旅もそうでした。濃厚で美しく刺激的な時間は、過ぎるのも早く、あっという間に1週間のアメリカ滞在が終わりました。どこかでも書きましたが、LAの空港へ向かう車の中で、物悲しく、窓の外を眺めながらこんなにも充実した旅の時間の終わりをなるべく渋滞にはまって引き伸ばしたい。帰りたくない!なんて思っていた私。その私の耳にラジオからこの曲が。その瞬間の光景は今でも鮮明に思い出されます。カラッと晴れたカリフォルニアの空はどこまでも青く透明で、乾いた空気の匂いがしていました。

その数年後デートで鎌倉を訪れ、BAR BANKに行くと、渡邉かをるさんらしき人が文庫本を読みながら端っこで飲んでいました。私はドリンクのオーダーをしてから、チラリと彼の方を見て再確認。やっぱりそうだ、となりまして、挨拶をしに行くと「おう、ハンサム(なぜか私はハンサムと呼ばれていた)。女性と一緒にいるのに、他の男に話しかけるな。失礼だろう、一緒にいる女性に」と言われました。

それから15年が経ち、数多くの失敗と、少しだけの成功と、沢山のどちらでもないものを感じてきた私は今だからこそ、渡邉かをるさんまた会って、少しずつ答え合わせがしたいと思うわけですが、そうもいきません。

というか、「おうハンサム。答え合わせなんてするなよ。そもそも答えなんか、ないんだよ」とか言われそうです。

結局アメリカの話ではなく、人の話に終始してしまいました。ただ、やはりどの国へ行くかではなく、誰と旅するか、ということの大切さを痛感した2010年のアメリカ旅だったのでした。

 

UPDATE BLOG

ブログトップもっと見る